「会津の武士道 第2期 戊辰戦争」展

霊山歴史館

poster for 「会津の武士道 第2期 戊辰戦争」展

このイベントは終了しました。

戊辰戦争の前哨戦である鳥羽伏見の戦いは、慶応4年(1868)正月3日、鳥羽の小枝橋付近で戦端が開かれた。旧幕府軍約15000名と、薩摩藩、長州藩、土佐藩が主力の約5000名が激しい戦闘を繰り広げた。旧幕府軍の主力は会津藩、桑名藩、新選組、京都見廻組らであった。
当初は数で勝る旧幕府軍が薩長軍を圧倒するかと思われたが、旧幕府軍は旧式銃や刀槍に袴姿、一方の薩長軍は新式西洋銃にだんぶくろの戦闘服だった。さらに薩長側に天皇の旗印である錦の御旗がひるがえると薩長軍は官軍となり、旧幕府軍は朝敵となった。このことによって失意した徳川慶喜は江戸へと逃げ帰った。
その後、新選組は甲州勝沼の戦いで敗走し、上野彰義隊も壊滅したが、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と対峙した。しかし朝敵の汚名をきせられることを懸念した各藩は次第に腰が引けはじめ、会津藩や庄内藩などは孤立していくこととなる。
また長岡藩家老・河井継之助は中立の立場を貫こうとしたが、新政府軍監の土佐藩・岩村精一郎との会談は決裂し、北越戦争に突入していった。そして北越戦争、白河口の戦いなどを制した新政府軍は会津城下を目指して三方から侵攻していく。城下への侵入をゆるした会津藩は鶴ヶ城籠城戦を決め、山本八重は七連発新式銃のスペンサー銃を持って戦った。しかし明治元年(1868)9月22日、会津藩は開城降伏し、庄内藩も翌日降伏した。
今回、斗南藩知事嘆願書草案や横浜市・増田恒男氏からお借りした戊辰戦争関係の資料を初公開します。これらの資料とともに第一期、第二期に引き続き、新島八重関係の資料も展示いたします。

メディア

スケジュール

2013年09月03日 10:00 ~ 2013年12月26日 17:30
10:00 - 17:30、月曜日が祝日の場合は月曜日開館し翌日休館、11月16日(土) - 12月1日(日)は10:00 - 18:30

Facebook

Reviews

All content on this site is © their respective owner(s).
Kansai Art Beat (2004 - 2024) - About - Contact - Privacy - Terms of Use