今年もこの季節が訪れている。
京都芸術センター開館以来続く公募展を母体とした『作家ドラフト』。
本展は2010年より行われているキュレーターやアートプロデューサーを発掘・支援する『展覧会ドラフト』と隔年で開催されてきた。美術以外の分野で活躍する人材を審査員にすえ、そのひとりの視点によって2組の作家が選出されるというユニークさをもつ。各年の5月頃には応募作品を審査・選出し、その後の約9ヶ月をかけて選出者は作品をつくり上げ、翌2月頃に展覧会として発表を行うというものだ。もはや作家及びキュレーター職を目指す若手にとって、本企画はひとつの登竜門として認知されているといっても過言ではない。しかし、毎回多分野のなかから選ばれる審査員によって、その年の選出者の傾向がわかれるのも事実だ。ただし、ひとりの表現者でもある審査員特有の着眼点こそが、この展覧会に他展とは異なるある種の色味を与えている。
今年は建築家の青木淳が審査員をつとめ、鎌田友介と高橋耕平の2名が選出された。
鎌田はこれまで視覚による認識について多角的に捉え直そうと試みる実験的な構造物をつくり上げてきた。それは絵画において三次元のものを二次元に表わす技法・遠近法の視点を、再び立体空間へ起こすという表現である。二次元で表現された線的な図面をそのままアルミ枠や木枠を用いて三次元空間に浮かび上がらせる行為は、定義化されたものの見方を壊し、歪みを孕ませた構造を再構築していく作業といえる。そして、本作ではひとつの要素が加わっている。昨年頃より作者はある事象をリサーチし、そこから拾い集めた材料を複数の軸で結ぶという思考によるマッピングを表わし始めたのである。本展では京都における構築と破壊の歴史をたどった。よって、作者がこれまで捉えてきた構造と破壊の表象は、京都という枠組みにはめ込まれ、ひとつのストーリーを浮かびあがらせる。ギャラリー北のホワイトキューブに佇む構造物がくり広げる物語を、必死に読み解く作業が、鑑賞者には求められる。
他方、ギャラリー南では約1時間におよぶ映像作品が上映されている。高橋はこれまで同じ動作やイメージの反復などふたつ以上の事象を同じフレームにおさめることで、共通性とそこに生じる差異を顕在化し、固有であることへの定義や条件を問いかける作品を発表してきた。しかし、高橋もまた新たな局面を迎えていた。前作から見受けられる、ある歴史をなぞるという試みである。本作では、廃校となった自身の母校の小学校を舞台に、かつての学び舎に流れる今現在の日常風景を撮り出すことで廃校前のありし姿を追想していく。まるで作者の抒情詩ともいえる本作は、容易に観る者の個人史を呼び覚ましノスタルジーへと誘う。にもかかわらず、鑑賞後に残される切なさともいえる感情には、それが単なる母校への追想や郷愁を誘うための再演ではなく、取り戻すことのできぬ姿がいまここにあるのだと思い知らされていることに気づかされていく。
鎌田・高橋両氏の作品は趣を異にしつつ、人びとがもつ既存の認識に対する強い問題意識において共鳴し、またそれぞれに訪れている作り手としての変換期を生々しく示している。「ずっと過渡期でいい」という鎌田の言葉や「設営したあとの反省はある」という高橋のささやきには、すでにこの地点より先へ向けて進み出した自身のゆく先を見据える姿がある。そのゆくえを見てみたいと思うのである。