海岸通ギャラリーCASOは、大阪港の近くに位置する現代美術のためのスペースである。今回、京都市立芸術大学の大学院に在籍する新鋭作家6名により、計3つの二人展が同時開催されるという、注目の試みが行われている。
「平面」の等価性と多様性―新平誠洙×岸本光大
新平誠洙と岸本光大による二人展「Surge/リブログ」は、一見、二人の作品が区別なく地続きに展示されたように見える配置の中に、「平面(絵画)」に対するそれぞれの思考の相違が浮かび上がる、興味深い試みである。
岸本は、自身で描いたペインティングも、それを写した写真を低解像度に加工した画像も、柔らかな布や光沢ある金属版も、プラスチック板も、壁紙のパネルも、ネット上の画像の一部も、等しく等価なものとして水平的に扱う。雑多なメディア、素材、質感、色、サイズからなる「平面」の羅列―それらは、ひたすら視覚的・触覚的刺激の連続と不連続として提示される。唯一の共通項は、矩形に切り取られた平面であること(または矩形の平面上に貼られていること)である。水平の台が作る一列のラインが、等価性をより強調する。
今回の二人展では、その並列化されたラインの中に新平の絵画作品も取り込み、羅列の中に包含するという、ある種暴力的な展示形式が採られている。だが新平の作品は、「絵画」においてなし得る様々な表現やスタイルの多様性の中に、自作を拡散させていこうとする志向を持つ。多重露光のようなイメージの重ね描き、グレーの諧調によるフォトリアリズム的描写、ストライプ状に刻んだ二つの画像を重ねたもの…。新平という作家像は、「絵画」を志向しつつも多方向に分裂した、いわば多重人格的な現れの中にある。
今回の二人展の試みは、同じ「平面」という形式を用いつつも、その等価性と多様性というベクトルの違いを同時に見せる試みだったと言える。
制御と自由さの狭間で―本田アヤノ×中田有美
一方、本田アヤノと中田有美による二人展「LOST CONTROL」は、立体作品と絵画という違いはあれ、カラフルな色彩と不定形でカオティックな形態が響き合う展示空間となっていた。
中田の絵画作品は、うっすらとパールがかった下地の上に、色とりどりの筆触が多方向に重ねられながら展開され、色彩の乱舞と描き手の身体性を強く感じさせるものである。筆触の密度や幅の多様さ、色のコントラストや滲み、絵具の物質感とストロークの運動性…こうした要素が多層的に重なり合う中田の絵画に対峙するとき、そこには視覚的快楽に身をゆだねる楽しさとともに、果敢な挑戦の姿勢もまた感じとることができる。色彩のバランスや線の密度をコントロールしたいという欲望と、いかに自由な線を引けるか―その困難を引き受けつつ、両者を不断に行き来することの中から、中田は絵画を生成させている。
また、本田アヤノの立体作品も、カラフルな布や雑多な日用品、木材、写真など様々な素材を組み合わせて、「完成形を見ようとする欲望や意味をコントロールしようとする欲望をいかに裏切るか」という試みであるように思われた。パンの形をしたオブジェ、ぬいぐるみ、木材などが一見無作為に組み合わされ、異なる柄の布で梱包された不定形の塊が奇妙な存在感を持ってたたずみ、布製のチューブのようなオブジェがだらりと垂れさがる…計算と無作為のバランスの拮抗が、ガーリーさも兼ね備えた本田作品の基底を支えている。
既視感とズレの再生がもたらす陶酔―Itoh+Bak
「Itoh+Bak」は、伊東宣明と朴永孝(バク・ヨンヒョ)によるユニット。伊東は、生/死、身体と精神といった生の根源的なテーマを扱う映像作家であり、朴はソーシャルメディアを活用したインタラクティブな映像作品を制作している。
この二人のユニット「Itoh+Bak」による本展「0099」は、トリック的な仕掛けによって錯視を引き起こす映像インスタレーションである。一台のモニターの、あたかも影のように壁面に投影された、もう一つの映像。だがそれは完全な分身ではなく、微細な差異が含まれていることに次第に気づく。映像自体は、「00」から「99」までの数字が記された紙を、京都の様々な風景の中で撮影したシンプルなもの。それらは次々とズームアウトしながら、「00」から「99」までカウントしていく。だがモニター/壁面の2枚の映像は、同じ風景の中に同じ数字を映し出しながらも、ある時は片方だけカメラの向きが反転したり、アングルが異なったり、風向きが違ったりと、完全には同期しない。両者は一見すると同じ映像に見えるが、1箇所を100パターンで撮影した映像×100箇所=約100の100乗通りの映像パターンが再生されているという。
同一性と差異の間を行き来し、平行世界のようで完全には重なり合わない2つの映像。その視覚経験は、観光客がカメラを向けるような名所ではなく、日常的でささやかな風景であることも手伝って、誰もが毎日の生活で経験している映像と記憶の関係を、より詩的に抽出したものだと言えるだろう。例えば、毎日の通学や通勤路。昨日見た同じ風景の記憶と、今見ている風景は、同じだが異なる。その繰り返しは、一見単調だが、複雑で微細な差異を孕んでいる。そのリズムの中に生がある。リリカルで静かなピアノの旋律も美しく、余韻と陶酔感を誘う作品体験だった。