アピチャッポン・ウィーラセタクン個展「PHOTOPHOBIA」

重層的な「光」の交錯

poster for Apichatpong Weerasethakul “PHOTOPHOBIA”

アピチャッポン・ウィーラセタクン 「PHOTOPHOBIA」

京都市中京区エリアにある
京都市立芸術大学ギャラリー @KCUAにて
このイベントは終了しました。 - (2014-06-14 - 2014-07-27)

In レビュー by Megumi Takashima 2014-07-19

タイの映像作家・映画監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンによる個展。タイトルの「PHOTOPHOBIA」とは「羞明(しゅうめい)」を意味し、明るい所に突然出ると、まぶしい光が目に痛みやショックを与える現象を指す。本展は、映像作品を中心に写真や平面作品など多様なメディアで構成され、暗室でのオーソドックスなプロジェクションに加えて、透明なアクリル板や三脚、窓のブラインドを用いたプロジェクション、ライトボックスなど、展示方法も様々に工夫が凝らされているが、「光」の多義性への言及が全体を貫く太い軸となっている。人工的な光(照明、光源、フラッシュ、花火)と自然界の光(炎、稲妻)―それらは映像を生み出す物理的な源であり、忘却と想起の狭間で揺らぐ記憶の謂いであり、霊魂など神秘的な存在のメタファーであり、社会的・歴史的に埋もれた存在を掘り起こし可視化させる手段でもある。

展示室に足を踏み入れると、巨大な照明装置が空間の中央に置かれ、壁の写真を明るく照らし出していることに驚く。通常は撮影の補助的な手段でありながら、フレーム内から排除され写ることはない照明装置が、ここではその関係を逆転させて中心に屹立しているのだ。こうして、撮影行為を基底で支える「光」「光源」の存在の前景化でスタートした展覧会は、光の現象を扱った写真群(発光しているかのような青年、逆光のポートレート、花火と重ねられた横たわる青年)に始まり、夢か現実か定かでない幻想的なイメージを紡いでいく。

だがそこには、政治、軍事、経済発展、セクシャリティーなど、タイの現代社会の諸問題が暗示されている。例えば、身体を発光させて夜の川辺に佇む青年を写した《Power Boy(Mekong)》は、作家によれば、副題の「メコン川」に住む妖怪をイメージした作品であるという。光を身にまとうかのような彼の姿は、人智を超えた異形の存在を思わせるが、上流に建設されたダムがもたらす電力と洪水、すなわち繁栄と破壊という相反する力をもたらす者の仮象なのである。

映像は、脆く儚い記憶をどこまで保存し代替できるのだろうか?あるいは、そうした記憶の不安定さや移ろいやすさを映像によって表現することは可能か?《ASHES》は、こうした疑問を問いかける、美しく内省的な映像詩である。

コマ送りされた手持ちカメラの映像は、手ブレや歩行など撮影者の視線や身体性の揺らぎを伝え、上下に分割された画面や断片的な映像の挿入といった仕掛けと相まって、「連続と不連続」を強く意識させ、映像にリズムを刻んでいく。それはさらに、夢と目覚めのサイクルを繰り返し、忘却と想起を日々反復し続ける私たちの生へと通じる(冒頭の朝の散歩のシークエンスの反復、「夢」についての語りが象徴的であるように)。そこで記憶は、思い出そうとすればするほど重なり合って溶け合い、曖昧に揺らぎ続ける存在である―そう示唆するように映像は、一貫したストーリーを語るのではなく、多重露光的に重なり合い、個々の輪郭が白い光の中に溶け合って、美しくも崩壊していく。ウィーラセタクンにとって、忘却とは黒々とした闇ではなく、あまりに明るくまぶしすぎる光であるのかもしれない。終盤、花火と燃え盛る炎のシークエンスでは、美しく幻想的な光芒を放ちながらも何かが失われ、燃え尽きた灰、記憶の残滓が夜空を漂うさまを思わせ、メランコリックなギターの調べと相まって、喪失感で画面を満たしていた。

古来より、自然界に現れる光は聖なるものであるとともに畏怖の対象であった。《Phantoms of Nabua》では、輝きと暴力性を合わせ持つ様々な「光」が交錯する。蛍光灯に照らされたグラウンドと傍らのスクリーン。爆撃のように激しい稲妻に襲われる村。その様子は、画面内のスクリーン上に映し出され、入れ子構造を形作る。すると若者たちが現れ、火のついた球でサッカーに興じ始める。火の粉をまき散らしながらバウンドするボールは、暗闇を飛ぶ人魂のようだ。ゲームは次第に盛り上がり、ついには火の球がスクリーンに燃え移ってしまう。一方、燃え尽きたスクリーンの背後では、プロジェクターの光がバチバチと音を立てて激しく明滅し始める。稲妻の映像は炎という現実の光に飲み込まれて消失したが、支持体であるスクリーンが消滅してもなお、映像は純粋な光となって、生き物のように明滅し、その存在を主張する。

《Dilbar》では、この光源の存在が、映像の鑑賞経験に付随し、絶えず空間を干渉する。宙吊りの透明なアクリル板に投影された映像は、背後のプロジェクターの光を透過させ、床や壁面に影絵のように自己を分散、増殖させていくのだ。映像はアラブ首長国連邦の美術館の建設現場と作業員の青年を撮影したものだが、影か亡霊のようなもう一人の彼の姿が一定の間隔で画面を横切ることで、移民労働者の従事する労働の単調さを印象づけている。

《Fireworks(Archives)》では、光はよりいっそう強烈に、ほとんど暴力性をまとったものとして現れる。花火の激しい閃光とカメラのフラッシュが渾然一体となり、闇に沈んだ奇怪な動物たちの彫像を束の間、照らし出す。撮影地はタイ東北地方にある実際の寺院であり、これらの彫刻群には土地が受けてきた抑圧の歴史が反映されているという。恋人同士のように寄り添う2体の骸骨や、オートバイや車に乗った鋭い牙の犬たちの像は、人間社会や権力に対する風刺の表現だと考えられる。それらの像をデジカメで撮影する男は、闇に埋もれた記憶に光を当てる者であるとともに、彼自身も閃光に晒され撮られる被写体でもある。爆撃のような音がその凶暴性を増幅する激しい光の明滅は、果たしてこの男の焚くフラッシュなのか、続々と点火され続ける花火なのか、あるいはこの地で起きた紛争の幻影なのか?撮影の主客も何の「光」なのかも、ここでは全てが混沌として不明瞭だ。撮影行為、美しい花火の光、爆撃の閃光、歴史の亡霊の可視化…「光」はいずれをも含み込んで、美と畏れという両義的で根源的な感覚を痛みのように見る者に与える。

Megumi Takashima

Megumi Takashima . 美術批評。京都大学大学院博士課程。現在、artscapeにて現代美術や舞台芸術に関するレビューを連載中。企画した展覧会に、「Project ‘Mirrors’ 稲垣智子個展:はざまをひらく」(2013年、京都芸術センター)、「egØ-『主体』を問い直す-」展(2014年、punto、京都)。 ≫ 他の記事

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