「歴史」とか「出来事」といったものは、誰にとっても同じように通りすぎているが、感じ方は人それぞれ異なる。過去に起こった事件やその場所に、米田知子は自身の考えてきたことを足しこみ、写真で表現している。名前さえ知らなくても、人は想像力で身近なことと結び付けることができるように、米田の写真作品は他人事ではないのだ。
今回の展覧会「米田知子 暗なきところで逢えれば」は、昨年2013年に東京都写真美術館で開催された展覧会の巡回展である。米田が姫路市の近隣である明石市出身であること、旧陸軍第10師団の兵器庫、被服庫だったレンガ造りの姫路市立美術館を生かした展示ができること、などの理由で開催が決まった。巡回とはいえ、東京で発表した作品にプラスした内容、緊迫感と静ひつさもインストールした展示空間は、ここ姫路でしか味わうことはできない。
展示空間は、作品シリーズごとに壁で仕切られている。その区切られたスペースは、入口から奥へ進むにつれて大きくなっていく。これまで米田が手掛けた写真作品が一覧できるようになっている。
例えば「Between visible and invisible」シリーズ。
小説家が書いた文章を、本人の眼鏡のレンズ越しに読み取ろうとする作品がある。一見「分かりやすい内容の写真」であろう。ああこれはあのひとね、と見ることは簡単だ。しかしどうやって原稿や眼鏡を手に入れるのだろう、といった想像が頭をよぎる。
「作品を制作するにあたり、アポイントをとることがとても大変です。撮影の段階までこぎつけたとき、その人にとって大切な眼鏡を、私が扱わせてもらえること、つまり『信頼』ということについて考えます」と米田は言う。
そう、「鑑賞」は作品の表面をめでることではない。膨大な労力を掛けて作家はなぜこれをつくったのか、そして見ている私たちは何を感じ取るか、そもそも私たちが見ているものは何なのか、このコミュニケーション行為が必要だと知る。
作品タイトルが想像力の一助になることもある。しかしこの展示では、作品脇にはキャプションがない。地名であろうと抽象的であろうと、そのタイトルによって作品の見方が変わること、そして言葉の重要性を米田は分かっている。作品タイトルは、入口で配布される会場案内図を、薄暗い会場で当たるしかない。
米田が「作品にフィクション性はない、と思いたい。昔はストーリーがある作品もつくっていたが、今ではその場、そのままの姿を撮ったほうが強いし、私がやりたいことに近い」と言うように、まずは目の前にある「写し出されたもの」を鑑賞者の目でとらえたい。見て何を感じるか、想像するか、その後にタイトルを知って、風景が一変することを体験するのが、米田知子の作品を観る一番の方法なのである。
「記憶と不確実さの彼方」シリーズでは、東京の展示にはなく、今展のための作品がプラスされている。このシリーズに深く関係している新作《菊・長崎・8月9日、2014》は「棺桶か?」とも思われる蓋のある白い箱からはみ出る菊の花だけで、思想や経験では測ることができない感情、ぐっと胸を突き上げる感覚を持ってしまうのは、私だけではないだろう。
「すべてのイメージは、みんなが同じように感じるものではありません。でも世界は形を変えてつながっています。どんな作品であれ、私はシャッターを押すまであらゆる想像をしているし、これまでずっと私が考えてきたことを写真に表現しています」
スパイ活動が身近ではない現代の日本に生きる私たちでさえも、このインスタレーション空間は、立ち入っただけでぞわっとするだろう。そして薄明かりの下で、ひとつひとつ写真をのぞき込んだとき、見えたり感じたりするものは決して簡単なものではないと気が付くだろう。一枚の写真から、自分の経験や体験、私たちが知らない私たちの過去を想起するに違いない。まさにその出会いが起こったとき、この展覧会の鑑賞の喜びを知るのである。
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米田知子「暗なきところで逢えれば」
期間:2014年9月13日(土)~11月3日(月・祝)
会場:姫路市立美術館
http://www.city.himeji.hyogo.jp/art/