音楽家・三輪眞弘インタビュー

『光のない。』再演にかける思い

In インタビュー by Megumi Takashima 2014-11-08

京都・北白川にアトリエ「アンダースロー」をオープンさせ、定期的に作品を発表している劇団「地点」。フェスティバル/ トーキョー12 で上演され、近年の最高傑作と評された『光のない。』が、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2014にて、10月18日(土)・19日(日)に京都芸術劇場 春秋座で再演されました。関西初演となる今回の上演について、本作で音楽監督を務める音楽家・三輪眞弘さんにお話を伺いました。

―『光のない。』は2年ぶりの再演ですが、関西初演ということで、この作品に関わられたきっかけについてお聞きします。

フェスティバル/トーキョーの当時のディレクターだった相馬千秋さんから、「音楽監督」という名前でオファーが来ました。「この劇に一番合う音楽を選んでください」というような依頼だったら引き受けなかったのですが、僕の活動もよく理解されていて、自由にやらせていただけるということなので引き受けることにしました。

―それ以前に、舞台作品への曲の提供や、音楽監督のお仕事をされたことはあったのですか?

なかったです。映画音楽のようなものを、ライブ演奏という形で作ったことはありますが、こういうコラボレーションは初めてでした。

―「地点」の舞台をご覧になったことはありましたか?

名前は知っていましたが、送っていただいたDVDを見たのが最初でした。「地点」の独特の発話技法には、最初はびっくりしつつも、一種の様式美みたいなものを感じました。僕は、音楽作品ひいては芸術作品は全て、基本的に「奉納」するものなんだ、つまり人が人に見せるものではなくて、神様の前で捧げて、人々がそれに立ち会うという関係性でなければ成り立たないんだと言っているのですが、「地点」の舞台はそういう演劇だなと親近感を覚えました。

―テクストには基づくけれども、そのテクストを完全に自分の方に簒奪しないということでしょうか?

そうです。演出家の三浦基さんご自身もおっしゃっていますが、話の筋を追っていくスタイルの上演ではないので、では何を手がかりにするのかと言った時に、独特の様式美が作られていくということにとても納得できました。
また、三浦さんの著書『おもしろければOKか?―現代演劇考』を読んで、とてもピンと来たんです。僕が音楽の世界で悩んでいることに、彼は演劇の世界で悩んでいて、僕が音楽の世界で挑戦しようとしていることに演劇で挑戦している人なんだということが論理的にもよく分かったので、これなら一緒に仕事ができると思いました。

―『光のない。』は、オーストリアのノーベル賞作家、エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と原発事故を受けて執筆した戯曲です。テクストを読まれて、どういう印象を持たれましたか?

最初はもちろん面くらいますよね。筋を追って読むことが無理ですし、演出もどうするのか想像がつかない。ただ、そもそもト書きに「第一ヴァイオリン」と「第二ヴァイオリン」と書かれてあるので、音楽との関連性が暗示されている。だからかなり悩みましたし、音楽を作るならヴァイオリンは使うのか使わないのか、そんなことを延々と考え続けました。
最終的には、僕が個人的に一番関心のある、テクノロジーと人間性の危機ということに引きつけて読みました。それについて語られているとは言えないけど、触れているようなテクストの部分を注意深く読んだりして、だんだんイメージができていきました。

―イェリネクの『光のない。』のテクストのもう一つの特徴として、「声(Stimme)」「声部」があると思います。ト書きに「第一・第二ヴァイオリン」とあるように、ヴァイオリンだけれども声を持って語っている訳ですよね。そうしたテクストの「声」に拮抗するものとして、音楽も人間の声を使って合唱隊にしようというアイデアが生まれたのでしょうか?

そういう部分もありますが、演劇の歴史におけるコロス(古代ギリシア劇の合唱隊)からの発想が一番強かったと思います。足だけが舞台上に見えていて、死者たちがコロスになるという三浦さんの演出には、なるほどと思いました。
音楽的なことを言うと、合唱隊は度々、五度重ねの和音を歌います。これは、ヴァイオリンの開放弦、つまりオーケストラがチューニングする時の音を、わざと人間の声でやっているんです。その意味では、ヴァイオリンとの関連を暗示しています。

―今回、クレジットとしては「音楽監督」ですが、ご自身で作曲された部分もあるのでしょうか?

もちろんあります。ただ僕の場合は、五線紙に音符を書くという形の作曲をする代わりに、基本的には、ある規則に従ってこういう行為を行いなさいという指示書が書いてある。そういう規則を作るのが僕の場合の「作曲」であり、「逆シミュレーション音楽」と呼んでいます。つまりこの状態になったら、ここのパートではこのピッチを歌いなさいとか。
今回の合唱隊の場合は8人+8人ですが、隣同士で演算をして、新しい演算結果が出て、それをまた隣の人が演算をして、新しい結果を生むというように、順番に状態を更新していく訳です。で、その状態に応じたピッチや歌い方を指定してある、というのが作曲したと言える部分ですね。合唱隊には指示書を渡して、演算を間違えない練習や、正しいピッチを歌える練習をしてもらいます。でもそれ以外に、ただテクストをつぶやくといった指示もあるので、その意味ではいわゆる普通に歌えという指示はしていない。ただし声は使うということです。
初演の時は、「声による一つの音響態のようなものが生まれる」という僕のイメージ通りのものができたと思います。

―初演の舞台を拝見しましたが、そういう指示書や、演算やアルゴリズムを使うという方法論に加えて、俳優の腕の筋肉に電気刺激を送ると、手に持った鈴が意思とは無関係に鳴る装置なども登場していました。そうした方法論や装置の使用が、『光のない。』という作品と響き合っていたと思います。イェリネクが提示している世界は、人間の側に主体を取り戻すのではなくて、もはや人間が主体ではなくなった世界だと思います。俳優も音楽も、電子的な音ではなく人間の声を使っていて、非常にオーガニックである一方で、非常に冷徹なまでに、人間性というものを排除した世界が構築されていると思いました。

普通、合唱と言えば、皆が心を一つにして歌い上げるものですが、そういうことだけはしたくなくて、真逆をやりました。絶望しているからというのが端的な理由なんだけど。
テクノロジーの進歩は止めようがないという事実は、もはや人間のコントロール下にないということです。でも、昔とは桁違いのテクノロジーの発展段階に来た今、そのシステムの中で生きる僕らが、どう人間であり続ければいいのだろうという問いかけに興味があります。人類は、テクノロジーによって引き起こされた問題をテクノロジーによって解決し続けてきたのだけど、永遠には続かないだろう、つまり終りがあるのだろうということが、絶望しているという意味です。

―今回、再演であるということについてもお聞きします。特に初演のフェスティバル/トーキョー12の時は、まだ震災から一年半しか経っていなくて、2011年に書かれたイェリネクのテクストがすぐに上演されるということで、震災への応答としては早いものだったと思います。フェスティバル/トーキョー12自体もイェリネク特集を組み、他の公演でも震災が言及されていました。今回はそれから2年経ち、さらに関西での初演ということで、モチベーションや意識の変化はありますか?

初演の時はまだ社会的に興奮状態にあって、メディアも、僕や三浦さんも観客もそうで、特殊な状況での上演だったと思います。それが今は、何も問題は解決していないけれども、メディアが沈静化して過去のものにしようとしている状況では、少なくとも観客の捉え方は大きく変わるだろうと想像しています。そういう状況が良いか悪いかは分かりませんが、少なくとも僕や三浦さんは、興奮状態ではないタイミングで、作品の本当の価値が問われるのだろうと期待しています。今度こそ冷静に評価してほしいという思いです。
しかも京都で再演できるということに、もう一つやりがいを感じています。三浦さんは横浜で震災を体験して京都に戻ってきたら、温度差が全然違っていて驚いたとおっしゃっていました。もちろん、福島で上演するのと京都で上演するのとでは意味も受け取られ方もずいぶん違うし、非常にデリケートなものですが、距離感が違う所で冷静に見てもらえるのではと思います。

―初演の時は、目の前で起きている現実にいかに応答するかという姿勢を、作り手も観客も求めていたと思うのですが、今回は、応答ではなくて、忘却に対してどう向き合うかということが求められているのではないかと思います。

それはその通りだと僕も思います。原発に関しては何一つ解決してないのですから。でも、作品として見てもらうということも、負けずに大事なことだと思います。三浦さんもおっしゃっていましたが、僕の感覚でも、あの特別な状況の中、日ごろ出ない馬鹿力を自分でも驚くくらい出して作ったんです。それをじっくり見て欲しい。社会的にどういう影響を与えるかということよりは、作品として、演劇や音楽や芸術の歴史においてどんなチャレンジだったのかを見て欲しいと思います。

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三輪眞弘(みわ まさひろ)
作曲家。1958年東京生まれ。1974年東京都立国立高校入学以来、友人と共に結成したロックバンドで音楽活動を始める。1978年より国立ベルリン芸術大学でイサン・ユンに、1985年より国立ロベルト・シューマン音楽大学でギュンター・ベッカーに師事する。1980年代後半からコンピューターを用いたアルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる手法で数多くの作品を発表。音楽についての独自の方法論「逆シミュレーション音楽」で2007年アルスエレクトロニカ、デジタル・ミュージック部門 グランプリ( ゴールデン・ニカ) を受賞するなど、国際的に高く評価されている。
モノローグ・オペラ『新しい時代』(2000)、サウンドインスタレーション『またりさま人形』(2003)、オーケストラのための『村松ギヤ・エンジンによるボレロ』、著書『三輪眞弘音楽藝術 全思考 一九九八 – 二〇一〇』(2010、アルテスパブリッシング)や、佐近田展康との「フォルマント兄弟」としての創作・講演活動など、その活動は多岐にわたる。現在、情報科学芸術大学院大学(IAMAS) 教授。

地点 CHITEN
http://www.chiten.org/
多様なテクストを用いて、言葉や身体、光・音、時間などさまざまな要素が重層的に関係する演劇独自の表現を生み出すために活動している。劇作家が演出を兼ねることが多い日本の現代演劇において、演出家が演出業に専念するスタイルが独特。2005年、東京から京都へ移転。2006年に『るつぼ』でカイロ国際実験演劇祭ベスト・セノグラフィー賞を受賞。2007年より<地点によるチェーホフ四大戯曲連続上演>に取り組み、第三作『桜の園』では代表の三浦基が文化庁芸術祭新人賞を受賞した。チェーホフ2本立て作品をモスクワ・メイエルホリドセンターで上演、また、2012年にはロンドン・グローブ座からの招聘で初のシェイクスピア作品を成功させるなど、海外公演も行う。2013年、本拠地京都にアトリエ「アンダースロー」をオープン。

公演情報
地点『光のない。』
2014年10月18日(土)・19日(日)
京都芸術劇場 春秋座
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2014

Megumi Takashima

Megumi Takashima . 美術批評。京都大学大学院博士課程。現在、artscapeにて現代美術や舞台芸術に関するレビューを連載中。企画した展覧会に、「Project ‘Mirrors’ 稲垣智子個展:はざまをひらく」(2013年、京都芸術センター)、「egØ-『主体』を問い直す-」展(2014年、punto、京都)。 ≫ 他の記事

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