フィオナ・タン「まなざしの詩学」

まなざしの交錯と視差の増幅の中で、積極的に「方角を失う」こと

poster for Fiona Tan “Terminology”

「フィオナ・タン まなざしの詩学」

大阪市北区エリアにある
国立国際美術館にて
このイベントは終了しました。 - (2014-12-20 - 2015-03-22)

In レビュー by Megumi Takashima 2015-03-20

中国系インドネシア人の父とオーストラリア人の母のもとにインドネシアで生まれ、オーストラリアで育ち、オランダで美術教育を受けた映像作家、フィオナ・タンの個展。世界中に離散した親戚を訪ね、自身の複雑なアイデンティティについて考察した初期のドキュメンタリー作品《興味深い時代を生きますように》から、複数スクリーンを駆使した近作の映像インスタレーションに至るまで、静謐で美しい思索世界が展開されている。

展覧会場の序盤、数十個の風船によって作家自身が空中浮遊する様子を記録した《リフト》や、砂煙を上げながら坂を転がり落ちる《ロールⅠ&Ⅱ》では、浮遊や落下という身体運動を通して、身体に加えられる物理的力の可視化が提示される。これらの「力」は、個人の身体に重くのしかかり翻弄する外圧としての歴史的、文化的、社会的な枠組み、そうした地上の束縛から自由になりたいという願望、特定の文化的アイデンティティに根を持たない移民としての不安定感やあてどなさ、といった様々な暗喩として読み込むことも可能だろう。

また、《ロールⅠ&Ⅱ》では、映像の再生速度によって、斜面の落下運動が加速するかのような感覚がもたらされる一方、手前に置かれたモニターには、砂が付着した手のクローズアップが静止画像として対比的に映し出されることで、折り畳まれた時間の層の凝縮と、引き伸ばされて宙吊りになった時間の凝固とが対置され、映像メディアにおいて「時間」は素材として伸縮可能であることが示される。

さらに《リフト》では、空中浮遊という同一の行為の記録が、モノクロの16ミリフィルム、ヴィデオ、静止画像、写真を元にしたシルクスクリーンといった複数の媒体によって提示されることで、映像メディアの歴史が孕む複数性へと開いていく。

こうした揺らぎや不安定さといった身体感覚やメディアの複数性は、タン自身の文化的アイデンティティの決定不可能性と結び付けて解釈可能であると同時に、自身が扱う映像メディアに対する優れた批評ともなっている。写真や映像といった記録メディアは、現実の対象に基づきながらも、撮影した瞬間からそれを「イメージ」にすり替え虚構化する装置であり、映像メディアにおける真偽の決定可能性は宙吊りにされていること。さらに、《インヴェントリー》は、《リフト》と同様、映像の技術史そのものを組み込み、新旧の映像メディア間の質的差異それ自体を提示した映像インスタレーションである。

《インヴェントリー》で被写体となるのは、18~19世紀のイギリスの建築家ジョン・ソーン卿が収集した古代ギリシャやローマの彫像、レリーフ、建築の一部である。壁面に所狭しと陳列されたそれらの古代遺物は、用途や特性の異なる6つの技術(35ミリフィルム、16ミリフィルム、スーパー8、8ミリフィルム、デジタル・ヴィデオ、ヴィデオ8)を用いて撮影され、サイズの異なる6つのスクリーンに、異なる距離、角度、色調、鮮明度で、断続的に映し出される。同じ被写体は、アナログの粗く不鮮明な質感とデジタルの高解像度の間で分裂し、複数の異なるアングルやスピードによる映像が並置されることで、対象との距離感は喪失され、静かな眩暈を引き起こす。それは、鑑賞者としての自らの安全な立ち位置の喪失でもある。

まなざしの複数化と分散、特権的で唯一の存在としての「見る主体」の解体。まなざす対象に向かって歩み寄り、細部を凝視するために立ち止まり、興味の赴くままに視線をめぐらせ、迷宮のような建築空間をあてどなく彷徨う6つの視線―それらは、個々の映像メディアの技術的差異を身に帯びながら、この混沌としたアーカイブ空間を歩き回る複数の鑑賞者のまなざしの具現化そのものでもある。

複数のまなざしを並置し、視差の空間を現出させ、その綻びを縫合するのではなく、積極的に彷徨うこと。この姿勢は、《ディスオリエント》において、西洋が「アジア」という他者をまなざしてきた一方的な視線を解体させる。被写体としてカメラの中に収め、安全な「イメージ」として所有する―そうしたまなざしの占有を解体し、無効化するのだ。

《ディスオリエント》の片側のスクリーンでは、マルコ・ポーロが記した中東・アジア旅行記『東方見聞録』を朗読する声に、現代の同地域を映した映像が重なり合う。「異教徒」「野蛮人」といった言葉が象徴するように、異文化への好奇心と偏見が同居するマルコ・ポーロの記述に対して、近代化の波が押し寄せ、工場労働、紛争、貧困といった現代の光景が映し出され、時間感覚の麻痺を味わう。一方、対面のスクリーンでは、様々な骨董品や彫像、動物の剥製、宝飾品、香辛料などが収集されたヴンダーカンマー(驚異の部屋)的空間が映し出され、「幻想」としての魅惑的なオリエント世界を構築する。しかし、これが「作られたセット」に過ぎないことは、もう一方の映像内で明らかにされ、また収集庫それ自体の中にも、チープなお土産品やテレビ画面が入れ子状に映し出されることで、幻想世界に亀裂が入れられる。西洋と東洋、中世と現代、虚像と現実の狭間でどこにも定位できない観客のまなざしは、秀逸な作品タイトルが示すように、「disorient(方向を失う、混乱する)」であると同時に、「dis-Orient(非・東洋)」でもある。

《インヴェントリー》と《ディスオリエント》はまた、「所有すること」の欲望の二つの相を突きつける。第一に、被写体が(実在する博物館であれ架空のセットであれ)モノを収集・保存する貯蔵庫であること。溢れんばかりのモノの過剰さは、収集という行為が根本的に孕む欲望を露にする。そして第二に、複製・記録媒体を通して、イメージを収集すること。その意味で《インヴェントリー》は、過去の遺物を収集・保存する記録装置の姿を、映像メディアの歴史を内在化しつつ記録するという二重性を帯びている。私たちは複数の(架空の)鑑賞者たちの視線を追体験する中で、見る主体としての自身を幾重にも分裂させながら、断片的なモノが集積・記録された貯蔵庫と映像メディアによる「記録すること」の歴史とを同時にまなざすのだ。そこに遍在する欲望と視線の偏差と歴史の力学をあぶり出すこと。それは、タンが追究する視線の政治学であり、近年デジタル映像アーカイブ化が進む美術館という近代的視覚装置に対する批評でもある。

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「フィオナ・タン まなざしの詩学」
期間:2014年12月20日(土)~2015年3月22日(日)
会場:国立国際美術館
http://www.nmao.go.jp/

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Megumi Takashima

Megumi Takashima . 美術批評。京都大学大学院博士課程。現在、artscapeにて現代美術や舞台芸術に関するレビューを連載中。企画した展覧会に、「Project ‘Mirrors’ 稲垣智子個展:はざまをひらく」(2013年、京都芸術センター)、「egØ-『主体』を問い直す-」展(2014年、punto、京都)。 ≫ 他の記事

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