20代30代の人たちに言わせれば「小説本の表紙」、60代以上の人たちに言わせれば「舟越保武の息子さん」。その作品を見れば、いまや国民のほとんどが知っているであろう、舟越桂の個展が始まった。
会場で、舟越作品と向き合う鑑賞者を見ていると、私はひとつの疑問を感じた。
「なぜ、顔ばかり見ているのだろう?」
私は、美術作品を鑑賞することは、作品を見ること「ではない」と思っている。あのひとに似ていますね、本当の人間みたいですね、きれいなつくりですね。そういう表面をなめるようなことは、美術作品のうわずみをなめているに過ぎない。
私が舟越の作品を初めて見たとき、幸せというよりも悲しみを抱えた人と出会ったときのように、目を合わせることがはばかられるような、心の痛みを感じた。私の意見が正しいというつもりはないし、美術作品は言葉にできない感情を動かされるものなので、人によって感想は異なるはずだ。ただ、舟越の作品は仏像ではない。正面から向き合って、「ははぁ」と敬うものではない。せっかく360度、あらゆる角度から見ることができる展示方法なのだから、ぐるっと見渡したり、かがんだりしながら、作品に話しかけてみるべきだ。
さらに今回の展示では、彫刻作品だけでなく、それに伴うドローイングもあわせて並んでいる作品もある。同じ空間に並ぶ、違うメディアの、同じ思いでつくられた作品。彫刻は舟越が見たい世界だとしたなら、平面世界は舟越の頭の中を具現化しているのだろうか。制作年が前後しているものもあるし、形や色に対して手の入れ方もまちまちだ。
例えばこの《月の降る森》(左)と《「深い森」のためのドローイング》(右)。
夜明けの湖面を感じさせるような青い色が、ドローイングの背景に塗られている。かたや彫刻作品が置かれているのは、ホワイトキューブ。薄い暗闇にすくりと立つドローイングと、既に起き上がっている彫刻。家に縛られているようにも見えるドローイングと、家から飛び出しているように感じる彫刻。いったい舟越が見たい(つくりたい)世界は、どちらなのだろうか?
舟越は「ひとりの存在は、見ている以上に大きな存在。人が一緒に寄り添っているものを形にしている」と語った。作品という、目に入るすべての情報が、舟越が求めるすべてではないのかもしれない。彫刻の彫りひとつ、ドローイングのストロークひとつ、そういった息吹も感じながら、目に入ってくる以上の何かをつかまえるように、改めて私は舟越作品を見たいと思った。
【概要】特別展「舟越桂 私の中のスフィンクス」
【会場】兵庫県立美術館
【会期】2015(平成27)年6月27日(土)―8月30日(日)
【開館時間】10:00~18:00、金・土曜日は~20:00(入場は閉館の30分前まで)
【公式サイト】http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1506/index.html