PLAY 「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」
大阪市北区エリアにある
国立国際美術館にて
このイベントは終了しました。 - (2016-10-22 - 2017-01-15)
この記事を読もうとする読者は、ある程度の美術的知識がある人たちだと思う。そこで尋ねたい。THE PLAYと言われて、それが何か、どういうものか、ということを知っている/知ろうとしているだろうか。
「展覧会」は誰のためのものか?
例えば。
テレビやネットで、「市内の公園で、暴行された男性が死亡」というニュースと「市内の●●公園で、3人の男たちに殴る蹴るなどされた24歳の男性が死亡」というニュースを見聞きしたとき、あなたはどう感じるだろうか?どちらにおいても「ああ暴力事件で死んだんやな」ぐらいにしか感じないだろう。私が言いたいのは、亡くなった男性がどこに住んでいるか、とか、その暴行がなぜ行われたか、とか、すべてすっ飛ばしていることにあなたは気が付くだろうか?ということである。
2016年のいま、私たちはたとえ人の死であっても、あらゆる想像することはしない。また、ちまたにあふれるアートイベント、芸術祭、あるいはアートフェアは、鑑賞者が作品と目が合った瞬間に「いいですね」と言うものばかりだ。しかし今回の展覧会では、そういう味わい方は不適当である。そんな世の中で、この展覧会が企画されたことは、ひとつの問題提起であろう。
2016年のいま「鑑賞」は何をするものか
なぜなら鑑賞者の多くは、置かれている作品を見て「大きいですね」と感じたり、貼られたパネルの数から「すごい作品量ですね」と思う、それ以上/以外、考えることはない。
2016年の私たち鑑賞者にとって「鑑賞」とは、表面をなめることである。こうした状況下で今回の展覧会へ足を運び、置かれている矢印形の立体物、それが水面に浮いている映像、これまで発表したときのチラシなどを目にしたとき、私たち鑑賞者は「なんか変わった人たちが、なんかやってる」以外、何をどう把握すればいいのだろうか。
「展示」という手段の再確認
しかしここは美術館、ある種の美術史や作品そのものに価値づけをする場所である。企画側からすれば、鑑賞者が置かれた展示作品や「アーカイブ」と呼ばれる貼られた資料を目に入れてもらうだけでなく、作品の背景や意味にリンクを張ったり、活動していたその時代感を想像したり、「高度な鑑賞」を望んでいるはずだ。
これでは、鑑賞者と企画側で意識に差が生まれてしまう。おそらく企画側からすれば「展覧会はサービスではない」ということを表明しているのだろう。私はその表明に賛同したい。さらに美術は簡単に理解できるものではない、美術館でしかできない展示というものがやはりあるのだ、と再確認させてくれた。この展覧会の企画に、私は心から拍手を送りたい。できるなら、より多くの人が「THE PLAY展、行きました、いいね!」ではなく、より深く「THE PLAYって何?」と関心を持つきっかけとなるべきだが、果たしてなるだろうか。
【展覧会名】THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ
【会場】国立国際美術館
【会期】2016(平成28)年10月22日(土)~2017年1月15日(日)
【公式サイト】http://www.nmao.go.jp/exhibition/2016/play.html