私は2014年から「KANSAI ART BEAT」に寄稿をしてきた。自分で内容を選び、取材へ行き、原稿を書いてきた記事を私なりに振り返ると、たった4年間なのに世の中の価値観や考え方が変わっている事に気付かされた。
鑑賞者はどこにいるのか
2月に「ARITISTS’ FAIR KYOTO」というアートフェアがあった。
東京で会った学芸員は、このアートフェアがあった事を知らなかった。同席していたアーティストは、事細かにこのアートフェアについて話をしていた。SNSが情報源として力を持っているのは、4年前から変わっていないが、そのアンテナの先、個人が知り得る情報の範囲は4年前より狭くなっている気がする。さらに、京都でアートフェアがあったことを知っているか/知らないか、という「情報」でしか受け取られておらず、作品の良し悪し、好き嫌いの話は聞こえてこない。
作品は売れたらいいのか
こうしたアートフェアで基準となるのが、売上額と来場者数、つまり数値で「良い/悪い」を決めている。美術館の大型展でも、「●万人来場!」というのが広報活動として使われている。言うまでもないが、分かりやすいものであればあるほど一般受けするので、来場者数が増える。だから、現代美術単品だけでは、良い数値を手に入れる事は難しい。私は、兵庫県立美術館の学芸員、小林公さんにこの思いをぶちまけてみたところ、思いもよらない答えが返ってきた。
「数値化することもそうですが、ぱっと見で判断できる作品が好まれたりする傾向はあります。そういうものを扱うギャラリーやアートセンターも増えています。公立美術館はそれらと違い、市民プールと同じで、今は興味がない人にも開かれている場です。何かのきっかけで興味を持ってしまった人の、その興味に応えるための場所なのです。そして、既に美術の関心が高い人がじっくり作品と向き合ったり、美術史を踏まえて作品や美術を考えたりする場でもあります。つまり、必ずしも時流に乗ること、消費するものだけがアートではないのです」
リサーチやアーカイヴは一時的な流行か
しかしこの数年間のアートシーンで私が引っ掛かっているのが、展覧会で見る作品は「リサーチを元にした」というものばかり、シンポジウムといえば「アーカイヴ」がテーマのものばかりであること。調べたり、それを考察する事は必要であるが、その熱量はとても一時的なもの、流行のように感じてしまう。
上記の画像は京都芸術センターの「アーティスト・イン・レジデンス2017 公募プログラム ビジュアル・アーツ部門」で滞在していた韓国人のキム・ジェウォンの展示風景であるが、2ヶ月間の京都滞在で、鑑賞者に何かを与えられるほど作家は理解できたのだろうか。キュレーターや施設も、もっと長い期間で接するとか、過去の参加作家に再び利用してもらう等の継続的目線を持ってもいいのではないか。
ひとまずの終わりに
「KANSAI ART BEAT」が一時休止することにより、あなたに何か不都合が起きるだろうか。これまで「KANSAI ART BEAT」に載っていた、あなたが知りたい情報の「隣のページ=自分の知らないこと」を開くことはあっただろうか。趣味の世界としてアートを嗜好するならば、友人知人の展覧会の情報は、彼らのtwitterやFacebookの投稿で得ればいい。しかし「KANSAI ART BEAT」で私は、一時的な話題提供をしてきたつもりはない。世界は広いこと、作品や表現の幅はさまざまであること、世の中にはいろんなアーティストがいることを証明するために、自分の足を運び、話を聞いたうえで、記事を書いてきた。そのはけ口としての関西アートビートがなくなることは、私には切実な問題なのだ。
自分の関心興味の以外/以上のアートを知りたくなったら、この「KANSAI ART BEAT」の私の記事を読み返してもらえるとありがたい。