京都国立近代美術館では「チェコの映画ポスター テリー・ポスター・コレクションより」展が開催されています。
絵本、人形劇、アニメーションなどで、独自の世界観を表してきたチェコは、映画ポスターのデザインでも数々の名作を生んできました。特に、政治思想を反映した社会主義リアリズム表現から脱却した、1960年代以降の映画ポスターはチェコらしい前衛的な性質を持ったものであると言えるでしょう。
社会主義時代のチェコは、全ての企業の国営化と同時に、言論や思想を検閲によって統制していました。資本主義的なコマーシャリズムを排除したことにより、独特のメタファーや、表現の置き換えがポスターに反映されるようになりました。例えば、《羅生門》など日本でもおなじみの映画が、独創的な解釈でポスターに描き直されています。
今回、中東欧の芸術研究の第一人者で、翻訳も多数手掛けられている阿部賢一先生にインタビューさせて頂きました。お話の中で、今日の日本の美術シーンの課題と、今後の発展のための示唆に富む教示を頂きました。
■先生の最近の活動についてお教え下さい
今の仕事の半分がチェコの文学作品の翻訳です。書く方では、カレル・タイゲについて書く方向で研究を続けています。コラージュ作品を中心に研究する予定です。
※1 カレル・タイゲ:チェコの批評家、芸術理論家、装丁家、コラージュ作家、翻訳家。チェコ・アヴァンギャルドの中心的人物
■チェコの映画ポスターは時に内容の文脈から切り離された状態で表されています。それはなぜなんでしょうか?
1960年代のチェコの世相はとても開放的でした。良い社会主義にしようという思いが、ポジティブな方向で働いていました。映画ポスターは鑑賞する市民からすると、謎解きのように楽しんでいたきらいがあります。社会主義だったからこそ、売れる、売れないなどの状況を考えなくてもよいわけです。芸術という言葉の持っている意味を、制作者が考える時間がありました。
■チェコのプラハと日本の京都は、1000年以上の歴史を持つ古都ですが、共通する部分と、共通しない部分はどこであると思われますか? また、今後の両国の文化交流において、どのような可能性があるとお考えでしょうか?
プラハ、京都は、共に歴史の蓄積があり、芸術文化に対する敬意は街を歩いていても感じられます。経済効率ではない部分の価値基準がまだ生きていることは共通していると思います。ただ、文化的な歴史にあぐらをかいてしまうとおしまいだと思います。京都も、プラハも観光都市で、ある意味何もしないでも多くの観光客が訪れます。しかし、観光客は一過性のもので、芸術はもっと長いスパンで捉える必要があります。すぐ売れるとか、売れないではなく、長い歴史を時間軸におきながら制作している人は、チェコでも日本でも強いと思います。
文化交流という視点では、例えばこのポスター展の案内が、街の床屋さんなどに貼ってあったりするのがいいですよね。東京だと情報がありすぎて埋もれてしまいますが、京都はとてもよいバランスで異文化に触れる事ができていると思います。
■世界の美術シーンで周辺領域であるチェコや日本は今後独自性を保ちつつ、どのように発展してゆけるでしょうか?
今、世界の現代美術シーンはグローバルな規模で時間が加速し続けています。その中で、本当の意味でクリエイティブな仕事をしようすると、時計を捨てなければならないと思います。社会主義時代のプラハは、ある意味鎖国状態であったからこそ、対象に没頭できる環境がありました。シュバンクマイエルなど、やっていることはとてもオーソドックスなものです。頑固に同じ事を、やり続けたからこそ、現在評価されているのです。
あと、芸術家達の活動を理解してくれるスポークスマンが必要だと思います。チェコでは、カレル・タイゲのような批評家がいて、解説してくれる人がいたわけですよね。人の介在がないと、作品が眠ったままで、当事者が死んでから発見という残念な結果になることもあります。今は、作家とマスコミが二極化しているので、その間に立てる仲介者となりうる人が必要だと思います。作品について語られる言葉は大事です。批評家の役割は重要ですね。
阿部先生の言葉から、大きな時間軸で文化・芸術を捉え、言葉によって作品を紐解いてゆく批評の役割が重要なことに改めて気づかされます。みなさまも、今、好きだと思っているものが、長い歴史の中ではどう見えるのだろう?と思いながら作品を見てみられるのもよいかもしれません。どうしようもなく、譲れないあなただけのこだわりを貫いてみることが、時代を創造するということにつながるのかもしれませんね。
[KABライター]
大坪晶 KABマネージャー