榎忠展「PATRONE-35」が、大阪のポートギャラリーTにて只今開催中です。
1960年代から現在に至るまで、いくつもの先鋭的な作品を発表しエキセントリックな存在であり続ける榎忠の作品が、写真の展示を主に手掛けるポートギャラリーTにて展示されています。
金属に偏執的ともいえる異常な関心を寄せ続け、旋盤工として長年培った技術を基に、これまでにも使用済みの薬莢や鉄骨、鉄屑など様々な金属を見つけては作品にしてきた榎忠が、再利用される直前の、立方体の鉄の塊と化したパトローネと廃棄処理工場で出会ったのは、2003年頃のことです。パトローネとは、写真機にフィルムをそのまま装填できる円筒形の容器のことです。
その後、2007年に豊田市美術館で開催された「ギュウとチュウ篠原有司男と榎忠」展の際に、総重量14トンものパトローネの作品《PATRONE-35》を発表。その後、ポートギャラリーT代表の天野氏は圧縮されたパトローネの塊に衝撃を受け、今回の展示へと至ったそうです。
展示の企画をすすめるうちに、榎忠のアルバムの中から代表作《ハンガリー国に半刈りで行く》のほか、本展で初めて紹介される写真がセレクトされ《PATRONE-35》と共に展示されています。
代表作《ハンガリー国に半刈りで行く》や、大砲のパフォーマンスのイメージから、破天荒、エキセントリックなどと形容されることの多い榎忠ですが、今回の展示を鑑賞し、繊細でスタイリッシュな一面をより強く印象づけられました。
ギャラリーの入り口をくぐると、まず代表作《半刈り》のポートレートが35mmフィルムの1コマ程の大きさにプリントされ、ミニマルな佇まいで額装されているのを目にします。
榎忠の《半刈り》はマルセル・デュシャンの星形の「剃髪」に由来するとも言われていますが、視覚的な印象からはアレックス・グレイの1974年のパフォーマンス作品「私的な広告」からも共通点を見いだせるのが興味深いです。
半刈りにしたロングヘアーのアーティストが、ゲリラ的に公共空間へと踏み出すボディアートとしての冒険的な試みであり、陰と陽、左脳と右脳、論理と直感、男性性と女性性、暴力と平和、破壊と創造など、それぞれ対極的であり相補的なものを、自身の身体を通じて表現したものと解釈できます。
榎忠の半刈り作品は時間の厚みを伴っており、左右対称の2枚のポートレート作品を撮るために、髪の毛が延びる時間を入れて4年以上もの歳月を費 やしたそうです。さらに、その間榎忠は普通に会社勤めをしながら日常生活を送っていたというエピソードにも感嘆の念に打たれます。
そのようなことができたのは、単に仕事を遂行するうえの技術だけでなく、対人関係に関わるコミュニケーション能力、榎忠の場合でいえば奇妙な風体を周囲に受け入れさせる説得力や人間力といったものが、芸術家としてのパーソナリティーともに高度なバランスを保っていた証拠ではないでしょうか。
また、本展覧会のタイトルでもあるパトローネの作品は、整然ときれいにならべられて額装されたものと、スクラップされ鉄の塊へと変わり果てた姿となったもの、そのどちらからも高度に洗練された工業製品に特有の硬質で、機械的な質感が与える無機質でスタイリッシュな印象を受けます。
そして、それらが同時に在ることで生まれるコントラストにより、表象的な印象を超えて、メタモルフォーシス、輪廻転生、物資は変容しても記憶は残るといったメッセージや、観る人の私的な記憶のイメージを喚起させるでしょう。
フィルムを装填するための円筒状の金属製容器であるパトローネが、製品として世に出たのはおよそ100年程前で、現在では写真撮影のデジタル化が大幅にすすみ、フィルム、パトローネの需要や本来の存在価値も著しく衰退しています。
作品《PATRONE-35》を構成する個々の金属の円筒には、かつてどんなイメー ジが宿っていたのでしょうか。使用済みとなりその使命を全うしたものもあれば、撮影はされても現像されなかったもの、あるいは全く使用されなかったものもあるのでしょうか。想像が膨らみます。
また、パトローネの真ん中に光を通してみたいという榎忠のアイデアも本展示で実現されており、祭壇のように積み上げられたパトローネの塊に囲まれたモニターには、榎忠の制作の営みを知る貴重なドキュメンタリーやハンガリー旅行中の8mmフィルムなども上映されています。
「生きていくことをより先鋭化したい」という想いを掲げ「芸術とは何か」という問いに真摯に向き合い、日常生活と美術制作を高いバランスを保ちながら長きにわ たり実践し続ける希有な作家の才気が、その作品のように高密度に圧縮された展覧会に是非足を運んでみてはいかがでしょうか。
*榎忠の代表作はこちらよりご参照下さい。
http://chuenoki.com/works.html