問題意識のありか
物故作家でない限り、現在私たちが行く展覧会は、アーティストやクリエイターの「いまつくられた」作品を見せる場であることが多い。その作品は、アーティストやクリエイターの「たったいまの」問題意識をもとにつくられていて、さらにそれは、作者である彼ら個人が抱えていること、あるいは世の中全体、一般的に普遍であり、共有すべき話題に対しての問題意識である。
ライゾマティクス(Rhizomatiks)と言えば、メディアアートというか、ITというか、みたいなデジタル素材をつかって、オリジナルのクリエイティブ性を強く打ち出しながら、アートワーク制作や企業などとコラボレーションワークをするようなイメージがある。しかしこの展覧会に限っていえば、ライゾマティクスはオリジナルの形あるモノを提示するというよりも、彼らの思考という目に見えにくいものをもとに、グラフィックデザインを考察(再考察?)している。
温故知新ではない
ときにアーティストやクリエイターは、先人たちの生み出した作品を模したり、手本にして、新しいものをつくり出すものだ。そのためこの展覧会では、田中一光、永井一正、横尾忠則、福田繁雄という4人のグラフィックデザイナーたちを例とし、問として「配色」や「感性」などを取り上げ、それぞれライゾマティクス的証明をしながら、解を探していくという展示方法をとっている。
壁に貼られたパネルには「3Dデータ」だの「ビジュアリゼーション」だのカタカナが並ぶが、ライゾマティクスの個性をアピールしているのではない。
かといって、こうした巨匠たちの仕事を指差し確認しながら、振り返ることはしない。時代や当時のコンセプトを差っ引いて、あくまで4人のグラフィックデザイナーの仕事に対して「なぜ」「どうして」そのようにつくられたのか、客観的に分析しているだけなのだ。例えば、これ。
つかっている色について白が多いだの、あるいは違うコーナーだと文字は上下に置かれる傾向があるだの、巨匠たちがこれまでの何十年と手掛けてきた仕事に対して、分析をしている。きっと彼ら自身も気づかなかった、彼らの「クセ」があらわとなっていた。
「見える化」で見えた先
これは学生の研究ではないし、ライゾマティクスの展覧会である。と意識することもなく、見せ方はユニーク。行った分析の結果は、大きな壁3面つかった映像作品として提示されたり、もしていた。もはや、分析からほど遠いビジュアル性の高いムービーを見せられているような、アートワークとしてのインスタレーションのようでもある。
「見える化」が何事も不透明な世の中に光を当てる手法であるとき、このライゾマティクスの展覧会はまさにそうであろう。しかし私には(展覧会タイトルに「死角」と名付けていることからも)、ライゾマティクスが「逆にむしろ、なぜ見えないといけないのか?」という問いかけをしているように感じた。なぜなら、最後に置かれた「4人のグラフィックデザイナーがこの『ライゾマティクス グラフィックデザインの死角』展のポスターをつくったら」を見て、もしいまでいう「見える化」をするなら、4人のデザインワークを模した(真似した)デザインで締めくくるべきである。しかし実際に並んだ4枚のポスターは、これまでの分析をもとにライゾマティクス味で画面配色や配色をしたらこうなるだろう、というものであった。このライゾマティクス味を見せつけたことで、「見える化」は「見えるか?」という問い掛けをしている。模倣やパクリといった問題が多く発生するデザイン業界で、これからどうやって生きていくのか、どうやってデザインをし続けていくのか、そして私たちはこの世の中をどうやって過ごすのか。考えさせられる展覧会である。
【展覧会名】ライゾマティクス グラフィックデザインの死角
【会場】京都dddギャラリー
【会期】2016(平成28)年5月26日(木)~7月9日(土)
【公式サイト】http://www.dnp.co.jp/gallery/ddd/