私が韓国について書くのは、2015年12月に光州の国立文化殿堂について以来だ。もちろん半年に1回ソウルやプサン等に行くことにしているから、韓国の感覚はある程度分かっているつもりだ。今月は平昌(ピョンチャン)オリンピック、パラリンピックで盛り上がる中、行ってみた。
Korea Artist Prize
毎年行われる「Korea Artist Prize」は、SBS財団が国立現代美術館(MMCA)と共催して、選ばれた4人(組)のアーティストを紹介する展覧会である。
美術館の広い空間に置かれた作品は、日本の現代美術展で見られるような、テクニックに凝った作品でもなければ、こう見せたら現代美術作品として成立するでしょ、というものは無かった。内容も、作家個人の話題や地域密着リサーチ系ではなく、韓国や世界の歴史的背景であったり、いま社会が抱える問題であったり、国を超えて私、つまり鑑賞者に考えることを突いてくる。
この「Korea Artist Prize」で紹介されるアーティストは年齢層が高い。つまり、いずれのアーティストも40歳前後(2017年で言うと60年代後半から70年代生まれ)と、30代が盛り上げている今の世界のアートシーンの文脈からすれば、彼らは決して「若手」とは言えない。
しかし40歳を超えてからも新たな挑戦を続けようとするアーティストが減る日本からすれば、あるいは、国レベルのアワードがない日本から見れば、この世代に対して、プレゼンテーションとしての展覧会、選ばれたことでのサポートが明示されていることは、ただひたすらにうらやましい制度に見える。
The 17th SongEun Art Award Exhibition
SongEun文化財団(SongEun Art and Cultural Foundation)は、2001年にスペースがオープンした当初から「SongEun Art Award」を創立し、アーティストを公開式コンペによって選ぶアワードを毎年開いている。
選ばれた4人の中から、さらにグランプリとなったアーティストには、個展の機会が与えられる。個人美術館が多い日本であるが、このように現代美術のアーティストにチャンスを提供する事はほとんど見ない。こちらもうらやましい限りだ。
江原国際ビエンナーレ2018(Gangwon International Biennale 2018)
よく外国人に「どうして日本はそんなにビエンナーレや芸術祭が多いのですか?」と聞かれて説明に困るのだが、この江原国際ビエンナーレは「平昌オリンピックの関連企画」というコンセプトだけである。
実は、オリンピックが行われている平昌(ピョンチャン)で、これまで3回のビエンナーレが開かれてきた。オリンピック開催のタイミングに重ねるとき、場所を平昌(ピョンチャン)と同じ江原道にある、隣町の江陵(ガンヌン)で行うことにした。そしてオリンピックが世界の国々が戦う場であると同じように、江原国際ビエンナーレも世界の国々から選ばれたアーティストたちが戦っていた。
なぜならレバノン、シリア、コロンビア、といった紛争や市民戦争が絶えない国からのアーティストたちが多く、生きること/生き抜くこと/死ぬことについて問いかける作品が多かったからだ。これこそ国際展がなすべきことであろう。自国以外のアーティストを混ぜれば国際展、と名乗っている日本のレベルの低さを実感した。
おまけ
帰り道、私は関西国際空港からそのまま神戸のKOBE STUDIO Y3へ寄った。韓国南部の青鶴洞に暮らす人々の写真と、民族衣装である韓服が並ぶ「白衣の暮らし」と名付けられた展覧会を、2月25日(日)までしている。いわゆる現代美術とは違う路線であるものの、隣の国でつくること、暮らすこと、生きることについて考えている人たちがいるという安心感をもって、じっくり向き合うことができる展示であった。
まとめ
日本にいると、韓国の事情を知りたがる、アーティスト、あるいはアートの取り巻きの人たちに、私はよく出会う。隣の国であるが、実はよく知らない、けど知りたい、でも言葉が分からないから、よく分からない。そう言って、自分の中にハードルをこしらえて踏み出さないくせに、私から手軽に情報だけを引き出そうとする人たちの多いことか。今回そういう「怠惰な」人たちが読むであろうことを想定したうえで、私は具体性に欠けるテキストを書き、明らかな作品写真は載せていない。気になるなら、現場へ行けばいい。知りたいなら、実物を見るべきだ。アートに触れ、考える上でしなくてはいけない行為を、いま多くの日本人アート関係者はさぼっているのではないか。今回に限らず、一番近い外国である韓国に行くたび、自省も含めて私は感じるのである。